医師の判断は、誰のためにあるのか。
私はこの問いに、長い時間をかけて向き合ってきた。
鼠径ヘルニアの手術に、入院は必要か。
一見すると小さな問いだが、
これは医療が何のために存在するのかを問い直す出発点だと、私は思っている。
手術室の60分と、数十の判断
手術室に入ると、世界が変わる。
照明が絞られ、モニターの光だけが視野に満ちる。
腹腔鏡のカメラが映し出す映像に集中しながら、私は鉗子を動かす。
鼠径ヘルニアの腹腔鏡手術は、慣れた術者であればおよそ60分で完結する。
その間に下す判断は、数十に及ぶ。
剥離の広さ。
メッシュの位置。
縫合の張力。
どれひとつとして、完全に「答え」が決まっているものはない。
そして手術が終わった約2時間後、患者さんは自分の足で帰っていく。
日帰り手術とは、そういうものだ。
私がこの形にこだわり続けているのは、それが「便利だから」ではない。
患者さんの生活を、できる限り奪わない医療があってもいいはずだ。
その判断に、私が責任を持つと決めたからだ。
ただ、その確信を持つまでには、長い時間がかかった。
「手術をするなら入院するもの」という前提
外科医として働き始めた頃、判断は単純だった。
上級医の指示に従い、ガイドラインに沿い、前例のある方法を選ぶ。
それは決して間違いではない。
経験の浅い医師が判断を誤らないための、理にかなった仕組みだったと今でも思う。
そしてその仕組みの中に、疑ったことのない前提があった。
「手術をするなら、入院するものだ」
入院して、点滴をつけて、術後はベッドで安静にする。
何かあれば、医師や看護師がすぐに対応できる。
それが「安全な医療」だと、疑いなく信じていた。
鼠径ヘルニアも、当然そうするものだと思っていた。
自分の足で帰る患者さんを見た日
あるとき、日帰り手術を行っているクリニックのサイトを見つけた。
いつも入院で行っている手術が、日帰りでできるのか。
手術したその日に自宅に帰って、本当に大丈夫なのか。
半信半疑のまま、実際に現場を見に行った。
そこには、手術を終えて自分の足で歩き、そのまま帰宅していく患者さんの姿があった。
その瞬間、私の中にあった前提が、静かに崩れ落ちた。
そもそも、鼠径ヘルニアの手術に、なぜ入院が必要なのか。
何のために入院するのか。
長年、当たり前だと思っていたことが、突然、問いとして浮かび上がってきた。
「念のため入院しましょう」という言葉の力
入院には、確かな安心感がある。
医師の目が届き、異変があればすぐに対応できる。
患者さんにとっても、「病院にいる」という事実が不安を和らげることは少なくない。
家族にとっても、医療者に委ねている安心がある。
一方で、入院には見えにくい負担もある。
環境の変化。
睡眠の質の低下。
仕事や家庭への影響。
入院の準備と調整に費やす時間。
場合によっては、入院そのものがストレスになることもある。
それでも私たちは、「鼠径ヘルニアの手術=入院」という組み合わせを、
深く問い直すことなく選び続けてきた。
外科医の立場で考えると、その理由はよく理解できる。
「念のため、入院しておきましょう」
この言葉には、不思議な力がある。
患者さんを安心させ、家族も納得し、医師自身も「間違っていない選択をした」と感じられる。
万が一、合併症が起きたらどうするか。
帰宅後に何か起きたとき、責任はどうなるのか。
「念のため入院させておいた方が安全だ」という判断は、誰も責めることができない選択であり、
同時に、医師自身を守る選択でもある。
同じ力を持つ言葉が、医療にはいくつもある。
「安全のため」と言えば、立ち止まらずに済む。
「標準的な治療です」と言えば、思考が止まる。
「説明しました」と言えば、判断は終わったことになる。
そうした言葉の影に、誰にも引き受けられない判断が、静かに積み重なっていく。
安全とは、場所の問題なのだろうか
私が日帰り手術に向き合うようになったのは、
「入院していれば安全」という考えが、
必ずしも現実と一致しない場面を何度も目にしてきたからだ。
入院していても起きる合併症がある。
入院していても防げないトラブルがある。
逆に、術前の準備が整い、患者さんへの説明が十分で、術後のフォロー体制があれば、
日帰りでも問題なく回復するケースは少なくない。
そうした経験が積み重なるうちに、私の中で一つの問いがはっきりと形を持ち始めた。
安全とは、場所の問題なのだろうか。
鼠径ヘルニアは、腹腔鏡を使った手術で、多くの場合60分前後で完結する。
術後の痛みは、かつての開腹手術と比べて格段に少ない。
全身状態が安定していれば、術後2時間程度で帰宅できる患者さんがほとんどだ。
技術と設計が整えば、日帰りは選択肢になり得る。
もちろん、すべての患者さんが日帰りに適しているわけではない。
全身状態や生活環境によっては、入院が必要なケースもある。
入院を選ぶことが、その人にとって最善であることもある。
私が考えたいのは、どちらが正しいかではない。
なぜ入院するのか。
この患者さんにとって、本当に正しい選択なのか。
その問いを、一つひとつ立ち止まって考えることだ。
判断は、誰のためのものか
年月が経ち、腹腔鏡技術を積み重ね、数千件の手術を経るうちに、
私の中に一つの問いが育ち始めた。
この判断は、誰のためのものか。
医学的に正しい方法と、患者さんの生活にとって現実的な方法は、しばしば一致しない。
かつて医学者ウィリアム・オスラーは、
医学を「不確実性の科学であり、確率の技術(アート)である」と表現した。
答えが一つに定まらないからこそ、そこには必ず判断が残る。
そして判断が残る限り、それを誰が引き受けるのかという問題も残り続ける。
入院を前提にしてきた医療には、長い年月をかけて積み上げられた合理性がある。
だからこそ、それを疑うことには抵抗がある。
それでも、「当たり前」を問い直すことなしに、
医療は患者さんの生活に本当の意味で近づいていけないと、私は感じている。
引き受けるとは、言い訳を手放すこと
開業し、理事長という立場に立ったとき、
判断の性質は、もう一度変わった。
医療の判断だけではなく、経営の判断が加わったのだ。
スタッフの採用。
診療体制の設計。
設備投資。
どれも医療の質に直結するが、医学部では一切教わらないことばかりだった。
医療的に正しい判断をしているのに、現場が疲弊していく。
善意で選んだはずなのに、経営が傾く。
理想を語るほど、現実との距離が広がる。
そうした場面に何度も直面するうち、
私はひとつのことをはっきりと理解した。
問題は、判断の内容ではない。
その判断を、誰が、どこまで引き受けているのか。
そこに本質がある。
引き受けるとは、言い訳を手放すことだ。
「制度がそうなっているから」でもなく、
「ガイドラインに従っているから」でもなく、
「私が、そう判断した」と言える立場に立つこと。
それは決して心地よいものではない。
だが、そこから目を背けた先に、本当の意味での医療の改善はないと、
私は信じている。
「先生が一番いいと思う方法で」と言われるたびに
診察室でそう言われるたびに、私は少し戸惑う。
「一番いい方法」が何を意味するのかを、知っているからだ。
それは、医学的に最も標準的な方法とは限らない。
医師にとって最も安全な方法とも限らない。
その人の仕事や家族の事情まで含めて、生活に最も無理のない方法を探すということだ。
外科医であり、理事長である。
この二つの立場は、ときに矛盾し、ときに補い合う。
手術台を降りれば経営会議が待ち、経営の判断が翌朝の手術室に影響する。
どちらかに逃げることは、私にはできない。
だからこそ、患者さんから判断を託されたとき、
私はその言葉をまっすぐ受け取ろうと決めている。
まとめ
鼠径ヘルニアの手術に入院が必要か否かは、実は小さな問いではない。
医療が何のために存在するのかを問い直す、出発点だと思っている。
そして問い直した先に残るのは、いつも同じ場所だ。
目の前の患者さんに、最高の手術を届けたい。
その人の生活を、できる限り奪わずに。
そのために「私が、そう判断した」と言える自分であり続けること。
それが、外科医であり経営者でもある私の、いまの仕事だと考えている。