説明責任は、医師を守る鎧ではない。
患者さんが判断に参加するための、対話の道具である。
「先生にお任せします」と言われたとき
手術を決める診察の場面で、私は説明をする。
合併症の種類とその確率。
麻酔のリスク。
術後の経過と注意事項。
それらを一通り伝え、
手術を受けるかどうかを患者さんに考えてもらう。
「ご不明な点はありますか」
患者さんは、少し間を置いてから言う。
「先生にお任せします」
その言葉を聞くたびに、私は思う。
この説明は、誰のためのものだったのか、と。
インフォームドコンセントは何を変えたのか
インフォームドコンセントという考え方が
医療に根づいたのには、理由がある。
かつての医療では、
情報は限られ、選択肢は示されず、
「任せてください」という言葉が当たり前に使われていた。
医師が決め、患者さんは従う。
その構造への反省から、
説明責任と患者参加という考え方が生まれた。
それは確かに、医療を変えた。
患者さんが自分の治療に関わることは、
本来あるべき姿だと今も思っている。
だが、現場に立ち続ける中で、
私の中に一つの違和感が育ち始めた。
説明には二つの目的が混ざっている
外科医は手術のたびに、
結果がどうなるかを考えている。
どれだけ丁寧に手術をしても、
不確実性をゼロにすることはできない。
だからこそ、事前の説明には力が入る。
考えられるリスクを挙げ、
起こり得る事態をできるだけ網羅する。
それは患者さんに知ってもらうためである。
同時に、
「説明していなかった」と言われないためでもある。
この二つの目的は、表面上は矛盾しない。
だが現場では、しばしば混ざり合う。
説明は「記録に残す行為」になっていないか
いつの頃からか、
説明は「伝える行為」よりも、
「記録に残す行為」に近づいてきた。
同意書、説明文書、チェックリスト。
これらは医療を守ってきた。
説明の抜け漏れを減らし、
行き違いを防ぐ役割を果たしている。
一方で、
書類を整えることが、
説明そのものになってしまう瞬間がある。
本来、説明とは
患者さんの反応を見ながら言葉を選び、
間を取り、理解を確かめるやり取りの積み重ねだ。
だが時間に追われると、
「一通り説明した」という形を優先してしまう。
そのとき頭のどこかで、
私は責任を果たしたのだろうか、と考える。
患者さんは本当に選んでいるのか
説明が守りの道具になりすぎると、
患者さんが理解したかどうかよりも、
説明したという事実が重くなる。
納得することよりも、
同意することが先に立つ。
そして、もう一つの違和感が生まれる。
患者さんは、本当に選んでいるのか。
病気や手術という状況は、
それだけで大きなストレスを伴う。
情報は専門的で、結果は不確実で、正解はない。
その中で「選んでください」と言われることは、
必ずしも自由ではない。
「お任せします」は判断の放棄ではない
「先生が一番いいと思う方法でお願いします」
この言葉は、判断を放棄しているのではない。
自分には判断できない、という
正直なサインであることが多い。
選択肢は示された。
だが、判断の軸は共有されていない。
その状態での選択は、
参加というよりも、
責任の押し付けに近くなる。
選択肢の前に、判断の軸を共有する
日帰り手術の説明を担うようになってから、
私は説明の仕方を意識して変えた。
情報を一度にすべて渡さない。
診察室で私が説明し、看護師がさらに補足する。
わかりにくそうな点は、繰り返し確かめる。
迷っている様子なら、その場で結論を求めず、
改めて来院してもらう。
同意書とは別に「日帰り手術のしおり」を作り、
帰宅後にも読み返せるようにした。
そして何より、
選択肢を並べる前に、判断の軸を共有するようにした。
何を大切にするのか。
どこにリスクがあるのか。
医療として譲れない線はどこか。
その共有があって初めて、
患者さんは選ぶことができる。
説明を「防御」から「信頼の準備」へ
効率は、正直に言えば落ちる。
説明にかかる時間も増える。
それでも、そのプロセスを経た患者さんとのやり取りは、
その後、格段にスムーズになった。
説明が防御ではなく、
信頼の準備になっているからだと思う。
守るための説明が増えるほど、
本音で話す余地は減っていく。
インフォームドコンセントは、
医師を守るために生まれたものではない。
その原点を忘れたとき、
説明は形だけになり、医師自身も疲れていく。
まとめ
私が目指したいのは、
何を言ったかではなく、
どう受け取られたかに重心を置いた説明だ。
選ぶことも、委ねることも、
患者さんが自分で選べる医療。
そのために、
説明責任を守りの鎧から、対話の道具へ変えていく。
インフォームドコンセントの本来の意味を、
診察室に取り戻したいと思っている。
