専門を極めるのに必要なのは、専門の中だけではない。
専門の外で積み重ねてきたものが、一つの手術を深くする。
「一意専心」の、その先を書く
以前、「一意専心、日々精進」という言葉について書いた。
消化器外科医だった私が、鼠径ヘルニアの手術に絞っていった経緯だ。
一つのことを深く極めたい。
その思いは、今も変わらない。
ただ、あの記事では、絞ることで得たものを中心に書いた。
今回は、外科医の手元に視点を寄せて、もう少し正直に書いておきたい。
一つの手術に絞った外科医は、何を失い、何を得たのか。
そして、専門を極めるとは、どういうことなのか。
絞ったときに、手放したもの
外科医として、私は幅広い診療に携わってきた。
胃がん・大腸がんの手術。
お腹の緊急手術。
内視鏡治療。
集中治療室での重症患者さんの管理。
鼠径ヘルニアの日帰り手術に絞ってから、これらの診療は行わなくなった。
それぞれに、やりがいがあった。
長い時間をかけて身につけてきた技術でもある。
それを手放すことに、迷いがなかったと言えば嘘になる。
専門に絞るということは、何かを選ぶことであり、同時に、それ以外を選ばないことだ。
選ばなかったものの中にも、大切なものはあった。
使わない知識と技術は、古くなっていく
手放したものは、そのまま残っているわけではない。
医療は、毎年のように変わっていく。
新しい治療法が生まれ、標準とされる考え方も更新されていく。
自分で手術をしなくなれば、その分野の知識や技術を更新する機会は減る。
手を動かさない技術は、少しずつ遠ざかっていく。
知識も、気づかないうちに古くなっていく。
かつてできたことが、今もできるとは限らない。
これは、専門特化の、目に見えにくい代償だと思う。
専門を絞った外科医は、その事実から目を背けてはいけない。
できなくなったことを、できるつもりでいることが、いちばん危ういからだ。
手放した経験が、周りを見せてくれる
一方で、手放したものは、消えてしまったわけでもない。
今の私が行っているのは、外科の診療の中の、ごく一部だ。
けれど、その一部の周りには、これまで経験してきた多くの診療がある。
その経験があるから、目の前の鼠径ヘルニアだけでなく、その人の体全体に目を向けることができる。
ほかに気をつけるべき病気はないか。
もしあれば、どのように管理すればいいのか。
そうしたことを意識しながら、診療に臨むことができる。
すべてがわかるわけではない。
ただ、さまざまな病気や治療に携わってきたことで、鼠径部だけでなく、全身をみることができる。
専門の治療の幅が広がっているのは、専門の外での経験があったからだと感じている。
先が見えるから、先手を打てる
以前の経験が生きているのは、目の前の診療だけではない。
病院に勤めていた頃、治療が難しい患者さんの入院治療に数多く携わってきた。
手術の後に、何が起こりうるのか。
状態が悪くなるとき、どんな経過をたどるのか。
それを、身をもって経験してきた。
日帰り手術では、手術の後、患者さんは自宅で過ごす。
だからこそ、この先に何が起こりうるのかを予測し、全体像を把握しておくことが欠かせない。
将来まで見渡すことができれば、先手を打って対策できる。
起こりうるトラブルを、起きる前に避けられることも多いと感じている。
日帰り手術を支えているのは、入院治療の現場で積み重ねた経験なのだと思う。
繰り返しが、引き出しをつくった
一つの手術に絞って得たものも、もちろんある。
同じ手術を繰り返すことで、手技の定型化が、より確かなものになった。
以前は、毎回試行錯誤しながら考えて手術をしていた。
今は、たくさんの引き出しの中から、必要なものを自由に取り出して手術をしている。
そんな感覚に変わってきた。
定型化というと、決まった手順をなぞるだけのように聞こえるかもしれない。
けれど、実際は逆だった。
基本の型が体に染み込んだからこそ、想定と違う場面でも慌てずにすむ。
患者さんの体は一人ひとり違う。
そのさまざまなバリエーションに、柔軟に対応できる力がついた。
型があるから、型を外れることができる。
繰り返しの先にあったのは、窮屈さではなく、自由だった。
専門外来としての役割をわきまえる
幅広い経験があるからといって、何でも自分で診ればいいわけではない。
当院は、鼠径ヘルニアの専門外来だ。
ほかの病気に気づくことはできても、その治療を担うのは、それぞれの専門の医療機関であることも多い。
気づくことと、引き受けることは違う。
専門外来として、自分の役割をわきまえておく必要がある。
気づいたことは、きちんと伝える。
必要であれば、ふさわしい医療機関へつなぐ。
専門に絞った外科医にとって、自分の外側に信頼できるつながりを持つことは、欠かせない条件だと思う。
専門を極めるには、専門の外が要る
専門特化を考えている若い外科医に、伝えたいことがある。
専門に特化することは、それだけを極めればいい、ということではない。
専門以外のことを、どれだけ広く、深くやってきたか。
それが、本当に専門を深く極めていけるかどうかに関わってくると思う。
最初から一つに絞る必要はない。
さまざまなことに挑戦する。
そのうえで、自分が得意とすること、深めたいと思えることを見つけ出していけばいい。
遠回りに見える経験も、あとで必ず、専門を支える土台になる。
私自身が、そうだった。
まとめ
一つの手術に絞ったことで、私は多くの診療を手放した。
使わない知識や技術は、少しずつ古くなっていく。
それは、専門特化の確かな代償だ。
一方で、手放したはずの経験は、今の診療を下から支えている。
専門の外での経験があるから、一つの手術の周りにも目を向けられる。
先が見えるから、先手を打てる。
そして、同じ手術を繰り返したことで、柔軟に対応できる引き出しが増えた。
専門を極めるのに必要なのは、専門の中だけではない。
専門の外で積み重ねてきたものが、一つの手術を深くするのだと思う。
